■さて、今回撮影した道祖神の写真から、銘文は「(□) 未 正月十日」 と読めます。残念ながら(□)は半分しか判読できません。この位置には、多くの場合、十干「甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸」のいずれかの文字が配されますが、(□)の下半分は十干のどの字とも一致しません。十干が省略されることもありますので、元号の一部かもしれません。そうなりますと、過去の元号から類推して、(□)は「正」の字の下半分ではないかと考えられます。そこで、「?正」なる元号の中から未年にあたる年を探しますと、
「寛
正四年(
1463)癸
未」 「永
正八年(
1511)辛
未」
「天
正十一年(
1583)癸
未」 となります。
■もう一つの見方があります。「(元号)・(年)・(十二支)・(月日) 」とする銘文の記載例もありますので、(□)の字を「五」の下半分と考えることもできます。では「(元号)五 未 正月 」に合致する年を探してみましょう。
「元和
五年(
1619)巳
未」 と 「正徳
五年(
1715)乙
未」 があります。
元和五年は神明社の造営工事が大々的に行われた年にあたります。
正徳五年は神明社へ曰く付きの手水鉢が奉納された翌年にあたります。
奇遇ですね。
何れの時期も、有能な石工が保土ヶ谷宿に逗留していたはずです。特に1600年代の初頭は、関ケ原の合戦や大阪冬の陣・夏の陣の後、各地で社寺の復興が盛んに行われた時代です。そのために築城技術に優れた藤堂高虎配下の石工集団
(志摩波切地区の石工)が全国に散って行ったと伝えられます。また、そうした石工たちが道祖神信仰や庚申信仰を広めたとの説もあります。
上記の通り、1799年の記録には「ずいぶん昔のことですので由来についてはよく分かりません」と記されています。正徳五年は1799年の84年前です。二世代前のことが分からなくなるほど、保土ヶ谷に大きな変化があったとは思われません。当時、本陣家・大仙寺の住職家・神明社の神主家とも安泰だった時期です。また、一見したところ石の風化もかなり進んでいます。
とするならば、元和五年説が・・・・・。
結論を急いではなりません。保土ヶ谷には元禄から正徳・享保にかけての石造物が各所に残されていますので。 謎解きにはもう少し時間がかかりそうです。
■一般に、日本最古の道祖神は、「
永正二年(1505)建立」の銘が入った長野県上伊那郡辰野町に祀られている双体道祖神とされています。
(この説については検証が必要です。 また外川神社の道祖神の様式を「(単体)僧形道祖神」と呼ぶそうです)