広重 「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋」の謎解き
広重の浮世絵 「東海道五拾三次之内 保土ヶ谷 新町橋」は、保土ヶ谷を題材にした数ある浮世絵の中でも特に有名です。描かれた橋が帷子橋(かたびらばし)であることも広く知られています。

ところが、「作者広重は、どこからどの方角を向いて描いたのか」となりますと、幾つかの疑問点が浮かび上り、自信を持って答えられる人は多くありません。

 一、橋の向きと街道が真っ直ぐではない。
 二、川の上流は、左右どちらか。
 三、背後の山はどこか。
 四、絵の左手の田圃はどこか。

一般に、江戸方面から新町方面、つまり、現在の天王町方面から岩間町方面を描いたものとされていますが、なかなかイメージが合致しません。もちろん、現在、川筋や道筋が大幅に変更されて分かりにくくなってはいますが、どうもそればかりが原因ではないようです。 (図A1 絵をクリックすると拡大します)


保土ヶ谷を題材とした浮世絵は何点くらいあるでしょうか。平成13年に横浜市歴史博物館で開催された「東海道と保土ヶ谷宿」展では、43点の浮世絵が紹介されました。その数が、実際に描かれた作品の何割程度なのかはっきりしませんが、意外にあるものだとの印象を受けました。その43点の浮世絵を、描かれた題材で分類すると、帷子橋14点 境木8点 権太坂5点 その他16点となり、帷子橋を描いた作品が目立ちます。

そこで、最新のジオラマ技術を使って謎解きをしてみました

図A 2 絵をクリックすると拡大します

広重の浮世絵「図A1」では、橋の向きと街道が傾いています。1800年代の初頭に描かれた「東海道分間延絵図」で確認しますと、やはり橋の前後で道筋がずれています。

当時、幕府の規則によって、橋の長さが最短になるよう、川の流れ対して直角に橋を架け、その向きにあわせて両岸の街道の位置を決めたため、帷子川のように川筋と道筋が直角に交わらない場合は、街道が橋付近で屈曲することになったのです。

「図A2」の拡大図「図A3」を見ますと、街道と橋は、およそ40°傾いていることが分かります。広重の絵も同じような傾き具合です。

よって、広重は、 印の位置から橋に向かって描いたことになり、「図A1」の帷子川は、右手が上流となります。

図A 3

図A 4 絵をクリックすると拡大します

では次に、「図A2」に相当する現在の地図を「図A4」に示します。

更に、「図A4」をジオラマ化すると「図A5」が得られます。

「図A5」によれば、「図A1」の帷子橋背後に見える山並は、久保町・西久保町・岩井町方面の山であることがわかります。そして、「図A1」の山のピークは、西久保町の「杉山社・安楽寺・円福寺」一社二寺背後の山であると考えられます。

また、「図A2」中の「塩田稲荷」は、現在の西横浜付近にあったと伝えられますので、「図A1」左の田園風景は、現在の西久保町公園ハイツ付近から相鉄線西横浜駅方面と考えられます。

【ジオラマ】平面的な地図を立体模型的に表現したもの。
左のジオラマ図は、高さが4倍に強調されています。


図A 5 絵をクリックすると拡大します
以上の考察から、広重の絵「図A1」は、帷子橋の江戸寄りの岸辺、

  つまり、現在の天王町駅付近から西久保町の山並に向かって、
  右手は現在の保土ヶ谷駅方面から、
  左手は現在の西横浜方面まで描いています。

そこで、天王町駅から、保土ヶ谷駅と西横浜を見渡す角度を計測しますと、画角はおよそ110°となります。 カメラの場合、標準レンズの画角は45°~48°程度と言われていますので、広重は、超広角レンズの視野で描いたことになります。

つまり、広重の描いた「東海道五十三次 保土ヶ谷」が、なかなか現在の風景に合致しない理由は、

  ・帷子川や今井川の川筋が変更された。
  ・街道の道筋や道幅が変更された。
  ・高い建物が建って見透しが悪くなった。

ことは言うまでもなく、

  ・街道と橋の向きが、およそ40°傾いていた。
  ・広重は、およそ110°の超広角レンズ的遠近法で背景を描いた。

ことが、最大の要因ではないでしょうか。

一度、相鉄線天王町駅下り線ホームの横浜寄りに立って、北東から南西の方角をぐるりと見渡せば、広重の超広角体験ができるかもしれません。
同じく広重の 「東海道 五十三次 程ヶ谷」
次に、雪の情景を描いた帷子橋の浮世絵「図B1」を見てみましょう。
「図A1」は天保4年(1833)作、「図B1」は弘化4年~嘉永5年(1847~52)作と伝えられます。

図B 1 絵をクリックすると拡大します

上の「図A1」と同じ手法で、ジオラマ「図B2」を求めます。 「図B2」から、描画位置は 印の地点となります。

つまり、広重は、現在天王町駅前にある宮川医院あたりから、天王町駅前公園方面を向いて筆を起こしたことになります。

橋の背後に見える山は、明神台から保土ヶ谷公園方面の山と推定されます。この絵の場合、画角は60°程度と思われ、比較的イメージしやすい背景描写になっています。

「図A1」と「図B1」とでは、橋脚の構造がかなり違います。上記の通り、描かれた年代に10数年の隔たりがあるため、その間に橋が架け替えられたか、或いは、描画上の処理によるものか定かではありません。


図B 2 絵をクリックすると拡大します
浮世絵(図A1)に描かれた人物
次に、浮世絵に描かれた人物について見てみましょう。
「図A1」の拡大図でも細部はよく分かりませんので、更に拡大しました。
橋の上の人物
侍(脇差しが見える)
1
駕籠かき
2
明荷を担いだ供の奴
1
虚無僧
1
駕籠の中の人
(1)
二八蕎麦屋の店先
おかみさん?
1
女中?
1

街道の旅人
雲水?+一般の旅人
8
行李を担いだ商人風の旅人
1

遠景の人物
農婦
1
子供
1
農婦の背中に乳呑み児?
(1)

右の絵は、同じ広重が描いた「浜松」の一部です。左の「保土ヶ谷」の遠景人物と似ているのでは・・・
 よって、浮世絵に描かれた確かな登場人物は、
18人
 駕籠の中の人を加えると、
19人
 更に、農婦が乳呑み児を背負っているとすれば、
20人
 と、なります。 ずいぶん多彩な顔ぶれですね。